【おばあちゃんが死ぬのが怖い】どう乗り越えればいい?

おばあちゃんが死ぬのが怖い。

おばあちゃんの死をどう受け入れたらいいかわからない。

そんな風に悩んでいませんか?

実は私も自分のおばあちゃんが死ぬとわかった時、怖くて怖くて仕方なかったです。

今回は祖母の死に対して私がどう向き合ったか、死を迎える事がわかった祖母にどう接していたかの体験談を執筆させて頂きます。

(※結構な長文です!)

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おばちゃんの検査入院の前日の不安

笑顔のおばあさんの娘とその娘

大学から帰ってきた私に、母が唐突に

「明日大学お休みしておばあちゃんの病院に着いてきてくれない?」

と言いました。

数日前、祖母は首に大きなコブのようなおできができたので、いつもの血圧のお薬をもらいにかかりつけのクリニックに行った時にお医者さんに相談したそうです。

いつもお着物を着ている祖母にとって、首の大きなおできは、着物の襟に当たって何となく違和感があるのだそうです。

すると、

「頸動脈の近くだから大きな病院で取ってもらった方が良いよ。大学病院紹介しますね。」ということになり、早速紹介状をいただいて、大学病院に行きました。

すると、おできの芯が思った以上に深いので、ご年配だし、高血圧でもあるし、念のために入院して大きなおできを芯から完全切除の手術をすることになったのです。

簡単なおできの日帰り手術かと思ったら、思った以上に大きな手術となって、私たちは驚いていました。

その手術も無事終わり、後は退院を待つばかりとなっていたところです。

明日の祖母の退院祝いの準備のため、私は母と、私が大学から帰ってきてから一緒にお買い物に出かけて、明日の食材とお花を買ってくることと、夕食後には、玄関の壷のお花を活ける約束をしていました。

母は出かける準備を一切していませんでした。

何となくただ事でない感じがしました。

「おばあちゃん、何かあったの?」

と私が恐る恐る聞くと、母が泣き出しました。

でも、今はまだ何が何だかわからないのだそうです。

ただ病院の看護師さんから電話があって、

「明日ご家族に担当医の説明がありますので、少し早めに来て下さい。また、ご家族のご意見もあるでしょうから、患者さんにはまだ内緒にしていますので、病室に行く前に受付から直接ナースセンターに来て下さい」

と言われたそうです。

「何か悪い病気かしら?癌かしら?」

母は怖くてただ泣くばかりです。

「お父さんは?」

と聞くと、

「お父さんにも会社休んでもらった。一緒に来てもらわないといけないでしょ。」

私は、怖くて思考が止まっていました。

何が起ろうとしているのか理解できずに、ただ

「おばあちゃんの退院祝いは? お買いに行かなくちゃ」そんな言葉が口から出ていました。

「お母さん、お花買いに行こうよ。おばあちゃん、明日退院できるかもしれないよ。ただ、術後の通院治療の説明かもしれないし。退院してきたのに、玄関のお花が活けてなかったらおばあちゃんがっかりだよ」

と言って、母を無理やりに身支度をさせ、デパートのお花屋さんに引っ張っていきました。

玄関のお花は、1mほどある大きな壷があり、そこに活けるのです。

何時もは祖母が割烹着を着てお花を活けているのですが、術後にそんな体力はないので、私と母で引き受けたのです。

お正月に向けた活け花です。

松や南天の木の枝と祖母の大好きな胡蝶蘭を買いました。

何時もはリップ(白にピンクの花弁の胡蝶蘭)だけなのですが、今年は、母に頼んで、ピンクとリップを買うことにしました。

それから、お赤飯や祖母の大好きな金目の煮付けにお吸い物や茶碗蒸しの材料を買い出しに行きました。

リップの花言葉は「上品・華やか・縁起が良い」と言う意味があり、祖母はお正月にピッタリだといつも言っていました。

今年私が母にお願いしてピンクを加えたのは、花言葉が「愛する人」だからです。

祖母の無事を祈り、「『愛する人(おばあちゃん)』に縁起が良いことが起りますように」

夕食後、母と私で、3時間かけて玄関を豪華に彩りました。

母も私も、忙しくすることで、『おばあちゃんが死ぬのが怖い』という気持ちから目をそらしていたのかもしれません。

ただ、祖母が無事に元気に帰ってくることだけを考え、忙しく動いていました。

気を抜くと、大きな黒い死の恐怖の闇に飲み込まれてしまいそうな気がしていました。

祖母は、物知りで、何でもできて、上品で、私の自慢です。

そして、子どもの頃から、いつも祖母だけが「きりちゃんは今のままで良いのよ」と言ってくれた唯一の私の理解者でした。

私は旧家の跡取り娘ですが、ボウッとした気が利かない子で、親戚中からいつも叱られてばかりでした。そんな中での唯一の味方が祖父母だったのです。

でも祖父は高校生のときに亡くなりました。

だから今は祖母が私の唯一の味方でした。

そんな祖母が死ぬなんてことは考えられませんでした。

「おばあちゃん、ちゃんと帰ってきてね!私はまだまだ教わっていないことがたくさんあるよ」そんな想いを込めて、玄関の活け花を母と活けていました。

母も同じ気持ちだったと思います。

「おばあちゃんが死ぬのが怖い」気持ちを追い払いたい

悩み続ける女性

次の日、おばあちゃんが死ぬかもしれない恐怖を感じながら、朝8時に受付を訪ねて、ナースセンターも通らず、そのまま応接室に会議室のような場所に案内されました。

レントゲン写真やMR、さまざまな画像がセットされていました。

祖母の病名は「悪性リンパ腫」、首のコブが癌だったそうです。癌は完全に切除したそうですが、リンパに転移しているので、あと1年持つかどうか、というお話しでした。

「そうは言っても、ご年配ですから、進行が遅く10年生きる方もいらっしゃいます。」

という医者さんの声が遠くで聞こえていました。

「ご年配なので、ご本人に告知するかどうかをご相談したいと思います」という声も。

父が母と話して、「本人には知らせないで下さい」と答える声も聞こえました。

「治療については、積極的に治療しますか?抗がん剤は、かなりきついのですが。」

お医者さんは淡々と矢次端に両親を質問攻めにしているような気がしました。

私は、独り遠くにいて、遠くからボウッと話を聞いているかのような、全てがぼやけた感じでした。

「先週、おばあちゃんと温泉旅行行ったばっかりじゃない?元気だったじゃない。おかしくない?あと1年ってなに?10年生きる人もいる?どれだけ適当????間違ってるんじゃないの?」

私の頭の中にはそんな言葉がぐるぐる回っていました。

何だかお医者さんの言い方に腹が立ちました。

「矢継ぎ早に物を言わないで下さい。事務作業じゃないんだから。おばあちゃんの命の長さを簡単に決めないで。」

と叫びそうになりました。でも、自分だけ別次元にいるかのような感覚で、頭の中の私が叫んだだけでした。

いつの間にか、お医者さんの説明は終わって、祖母の余命に対して両親の出した結論は、祖母を連れて帰り、家で静かに過ごすことになったようです。

母はおばあちゃんが死ぬかもしれないことを受け入れられずに泣いていました。でも、今から祖母を迎えに行くのです。

でも母の顔は泣きはらした感じですから、祖母は変に思うでしょう。

そこで、退院の手続きがあるからと、母はお化粧を直して泣いた顔を隠し、その間に父が支払いを済ませてくることになりました。

なぜか泣いていない私が祖母の病室に独りで向かいました。

私は、

「おばあちゃんが死ぬかもしれないのに、どうして涙も出ないの?おばあちゃん大好きなのに。でも、実感がわかない。おばあちゃんは死なない気がする」

そう思っていました。

祖母が死ぬなんてそんなこと考えられません。少しでも怖いと思ったら本当になってしまう気がして必死でおばあちゃんの死から目を背けようとしていました。

「おばあちゃんが死ぬのが怖い」

それでも頭にこの言葉が浮かびます。

「言霊というのがあってね。言葉にしたことは本当になるのよ。だから、言葉は大切にね。」

これは祖母が幼い私に語って聞かせた言葉です。

だから

「おばあちゃんが死ぬのが怖い」なんて思うだけでも、祖母を死に近づける気がしたのかもしれません。

だからでしょうか。頭に何も浮かばないように、私は感情を消し去ったのでしょうか。

心理学の授業で、「人間は自己防衛本能で、心が壊れそうな出来事は、記憶から消し去ってしまう」と習った授業を思い出しました。

今の私がそうなのでしょうか?

とにかく泣いてしまったら、「おばあちゃんが死ぬ」現実を本当に認めてしまうようで、怖くて怖くて、

「おばあちゃんのいない世界なんて考えられない。そんなことはあり得ない!」

私は、75歳の祖母を、絶対にいなくならない不死身の女性のように思っていたのかもしれません。

元気なおばあちゃんを家に連れて帰る

家族団らんの様子

病室に行くと祖母は、既に着物姿で待っていました。

「遅いわよ!あら?お母さんとお父さんは?」

と祖母が言うので、

「お母さんは、おばあちゃんが少しでも早く帰れるように、今会計に支払いに行ってる。お父さんは、新しいお薬の説明を薬剤師さんから受けてる」

ととっさに答えました。

「なぁに?きりちゃんが聞いてくれたら良いのに。あなた薬学部でしょう?」

と祖母が返してくるので、

「まだ1年だし、おばあちゃんに早く会いたかったからね。それより、昨日玄関のお花、がんばったよ!お師匠さん!」

と答えました。祖母は

「帰って、判定しなくちゃね。下手くそだったら許しませんよ。玄関のお花なんだから、お華の生徒さんに笑われちゃうでしょ。」

祖母は自宅で華道教室を開き、お師匠さんをしています。

「お母さんも手伝ってくれたから大丈夫だよ」

と私が答えると、祖母は

「もっと心配だわ!」

と、母が聞いたらかんかんに怒りそうなことを笑いながら言いました。

しばらくして両親が入ってきました。

祖母は、病室をそそくさと出て、荷物は私と父に持たせて、駐車場のある地下へルンルンした感じで向かっていました。

そして、父の車にそそくさと乗り込んで、みんなで家路につきました。

「金目と茶碗蒸し食べられる?病院のお食事美味しくなかったのよ」

と祖母が私の耳元で囁きます。私はピースサインをしました。

祖母はニッコリ微笑みました。

自宅に着いてからは、祖母はお部屋の炬燵に入って、テレビをつけてお昼のサスペンスを見始めました。

いつもの通りです。

さっきのお医者さんの話は、まるでウソのようです。

少しずつ体調が悪くなって、お腹が張ったり、内臓の調子が悪くなるかもしれないけれど、年齢のせいだということで誤魔化していくのだとか。

そして、いつになるかわからないけれど、次倒れたら、一気に悪くなって、昏睡状態になって1週間程度で亡くなってしまうこともあるのだそうです。

ウソのような話です。

その日は、本当に楽しく祖母の退院祝いが開かれました。

ちょっとおしゃべりで感情が大げさな叔母さん(母の妹)には、祖母が気付く心配があるので、内緒にしたままで、賑やかに時間が過ぎていきました。

叔母には、母が時期を見て話すと言っていました。

おばあちゃんの死を受け入れられないまま、私は大学へ。

いくら本を読んでも理解することができない

一番の恐怖(「おばあちゃんが死ぬのが怖い」という気持ち)が実感として私に訪れたのは、その日の夜ベッドの中ででした。

昼間のお医者さんの言葉がぐるぐる回りました。おばあちゃんが死ぬ?

「うそだ!うそだ!今日だって元気じゃない!おばあちゃん笑ってたじゃない!?」

私は、おばあちゃんが死んでしまうのが怖くて気が狂いそうになりました。

母の泣き声が聞こえてきた気がしました。母もおばあちゃんが死ぬのが怖くて泣いているのだろう、父が慰めているのだろう、と思いました。

私は、どうして泣けないのか。おばあちゃんが死ぬことがこんなにも怖いのに。

泣かないから、全てを任される。冷たいとか、強いとか母に言われてしまいます。

「おばあちゃんが死んじゃうのよ。きりちゃんは何ともないの?」

と言われたのは、堪えました。心の底からおばあちゃんが死ぬのが怖いです。

私だって、気が狂いそうなのに、どうしてだか涙が出ないのです。

それよりも、私はお医者さんが言ったことを確かめてみようと思いました。

私が通っている大学には、医学部もあります。

だから、図書館には山のように学術論文が揃っています。

もしかしたらおばあちゃんの病気は違う病気で、死なないかもしれない。

次の日私は朝5時半に家を出て、7時には図書館に入っていました。

パソコンで検索して、片っ端から学術論文を読みあさりました。

医学部の学術論文は全部英語ですから、辞書を使いつつ、3日かけて30以上の学術論文と8冊の医学書を読みつくしました。

お医者さんの言葉と全く違うことが書いてあるように思いました。

半年説もあれば、10年説もあり、慢性もあれば急性もありました。

治療法も抗がん剤だけでなく、放射線治療の完治法もありました。

末期の症状も何種類もありました。

祖母と同じ症状は全くありませんでした。

私は、これらの論文をUSBにコピーしたものと医学書8冊を図書館から借りて、祖母の担当医にアポを取り、その日の夕方説明を求めることにしました。

私が用意した論文に書いてあることと、お医者さんが説明した話に食い違いがあること、疑問点について、疑っている点も、徹底的に説明と解説を求めました。

気がついたら、4時間半も時間が過ぎていました。

今考えると、リンパ腫の名医で、38歳で、日本で5本の指に入る優秀なお医者さんがよく私の相手を4時間半もしてくれたと思います。

最後に、「自分の祖母でも同じ治療法を選択しますか?」と聞きました。

そのお医者さんは、「私は、これでも、全ての患者さんに『自分の家族だったらどうするか?』と考えて治療法を決めてますよ。冷たく感じたかもしれないけど、ご家族への告知は私も辛いんですよ。」

と言ってくれました。

その真剣な顔を見て、「おばあちゃんは死んじゃうんだ。この先生を信じておばあちゃんを守ってもらうしかない」と思いました。

「どうか、祖母ができるだけ苦しくない状態で楽しく人生を終えられるようにしてあげて下さい。よろしくお願いします」

と言っている自分に気がつきました。

突然立ち上がって唐突に思いっきり頭を下げたようにお医者さんには見えたのか、お医者さんはビックリして、椅子から落ちてしまいました。

このとき、私の暗い恐怖の闇は晴れていました。

おばあちゃんが死ぬのが怖いと恐れているのではなく、

何かしようと思えるようになっていました。

する事は決まっていました。

おばあちゃんが私にしてもらいたいこと、そして私が逃げ続けてきたことです。

おばあちゃんのお稽古を全部受けよう!

お茶をたてる女性

私は、旧家の跡継ぎ娘です。

だから、祖母から後を継いでも恥をかかないようにと、たくさんのことをしつけられてきました。

お稽古事も、お華にお茶に日舞、料理、お習字、ピアノ、子どもの頃からこんなに習わせられました。

その中で続いたのはピアノだけ。後はひたすら逃げることしか考えず、実際半年から2年程度で、やめてしまっていました。

だから、ピアノ以外は全て中途半端です。

そのうち、祖母は諦めたのか、

「女は愛嬌!作法さえしっかりしていれば何とかなるわね。時代は変わってきたから。家に出張コックさんが来てくれる時代ですからね~」

と言うようになりました。

だから、さまざまな所作だけは厳しく徹底的に躾けられました。

祖母は、どんな気持ちで、お稽古をやめることに賛成したのだろうと、今では申し訳ない気持ちでいっぱいです。

そこで、まず、私はお料理やお華を祖母から習うことにしました。

祖母は

「いったいどうしたの?」

と不思議がっていましたが、孫が自分のお華のお教室にいること、一緒に展覧会を彩ることに、とても喜んでいました。

生徒さんに、私の居ない所で、“ちびまる子ちゃんの友蔵じいさん”のように孫自慢をしまくっていたようです。

生徒さんが「お師匠さんが嬉しそうでしたよ」と私に教えてくれました。

祖母と一緒に料理をして、私の作ったお料理の味見をして美味しくできたときは、祖母は満面の笑みで喜んでくれました。

私は、祖母の招かれたお茶会にも着いていきました。

そのために、お茶の作法も祖母にお稽古をつけてもらいました。

何年ぶりでしょう。お茶室に入ったのは。

祖母はいそいそと私をデパートに連れて行き、私のお茶のお道具を新しい物に買い直してくれました。

お嫁道具にもできるようにと、かなり高価な良い品を選んでくれました。

嬉しそうに買い物をしてくれる祖母の姿を見て、私の後悔は、さらに深くなりました。

私は、おばあちゃんの気持ちに少しでも多く応えるために、着物の着付けも一生懸命祖母から習って、着物を自分で着付けられるようにもなりました。

日々、おばあちゃんが死ぬのが怖いと強く感じるようになりました。

なぜ今までおばあちゃんの気持ちをないがしろにしてしまっていたのか。

幼い頃の私にとっては、ご近所のお友達と遊ぶ時間の方が重要な時間だったのです。

それに祖母が諦めてくれたので、祖母もそんなに私に期待していなくて、跡継ぎ娘だから仕方なくがんばってくれていたに過ぎない、と思っていました。

だから、子どもの私は、無邪気にお稽古をやめたことで、おばあちゃんを解放してあげて、おばあちゃん孝行をしたかのようないい気にもなっていました。

祖母が今、こんなにもウキウキしている姿を見て、どれだけ祖母をガッカリさせたのかを思い知らされました。

「きりちゃんは愛嬌があるから、笑っていなさい。おばあちゃんはきりちゃんの笑った楽しそうな顔が大好きですよ」

といつも言ってくれていたのです。

もしかしたら、お稽古の押しつけは、私の笑顔を奪うことだと祖母は思ったのかもしれません。多分ですが、私に向けた自分の夢や希望は後回しにしてくれていたのでしょう。

祖母は、常に私がやりたいことの一番の応援者だったからです。

だから、

「今度は私がおばあちゃんを笑わせてあげなくちゃ!」

と心に誓いました。

展示会は、祖母の体力を消耗するので、祖母を説得して、指揮監督だけで、活け花は私が先頭だって祖母の指示を生徒さんに伝えて行いました。

祖母の病気のことは、どこで祖母の耳に入るかわかりませんので、周囲の生徒さんにも内緒です。

でも、祖母は生徒さんにとても人気があり「お師匠さんが喜ぶ」という理由だけで、生徒さんは未熟な私に力を貸してくれました。

展示会の後は、私の手料理で生徒さん達を労いました。

母も手伝ってくれましたが、祖母は私の手料理に大満足のようでした。

私は、日舞も習い始めました。

日舞は体幹を鍛え、女性としての所作を最も美しくするのだそうです。

私はがんばりました。

おばあちゃんが死ぬ前に。おばあちゃんに少しでも笑ってもらえるように。

祖母は気分の良いときは、私のお稽古についてきます。

お稽古の度に、祖母の前で踊って見せることになります。

日舞のお師匠さんと祖母は幼なじみらしく、お稽古の後は私の悪口です。

お師匠さんが良かったと誉めてくれても、祖母はあれやこれやと悪い点を指摘します。

祖母が満足するまでには成れないかもしれないと本気で心配になりました。

でも、祖母は悪口を言いつつもニコニコしています。

お医者さんによると、ご機嫌が良いと人の免疫力は高まるのだそうです。

祖母は、お医者さんの話よりもずっと長く元気でいました。

私がお華のお師匠さんの免状をもらうまで。

それから春のお茶会を2回、秋のお茶会を2回、新年のお茶会を3回と、

私はお茶のお免状もとりました。

全て中途半端でやめてしまいましたが、基礎はしっかりと物心着いた頃から祖母に仕込まれているのですから、ちょっと本気になれば短期間で勘を取り戻せました。

着付けはもうベテランです。

祖母に習って、着物の洗い張りもできるようになり、浴衣や簡単な普段着の冬の着物も縫えるようになりました。

父のお正月の着物を祖母に習って仕立ててあげました。

祖母に内緒で一緒に祖母の冬の着物も仕立ててみました。

祖母から見ると下手くそだったと思いますが、祖母はもの凄く喜んで、その冬は、初詣にもその着物を着て出かけたくらいです。もちろん冬のミンクの襟のついた羽織でほぼ隠れるのですが。

「京都の呉服屋さんに行って私と反物を探す」これは、祖母の夢だったそうです。

私は、知らない間に、祖母の夢を叶えてあげていたようです。

おばあちゃんが亡くなる前の日の奇跡

おばあさんを介助する女性

でも、とうとう祖母が家のトイレに行って手を洗って出てきたところで、気を失ってしまう出来事が起りました。

トイレに行く前は、私の日舞のお稽古を見てくれていたのです。

2週間後は、日舞の名取りの試験でした。そのお稽古です。

祖母は、今まで、あちこち具合が悪かったのですが、お薬で対応できていました。

私はずっと気をつけていたのに、祖母が最近元気だったので油断をしていました。

なんだか、このまま祖母はずっと元気でいて、死なない気がしていたのです。

お医者さんも、

「もう1年いけるかもしれませんね。ご年配の方は進行が遅くて予想がつかないんですよね。でも、良いことですよね。」

と、つい最近言ってくれて私が大喜びしたばかりだったのに。

ついに祖母の死がすぐそこまで近づいてきたのです。救急車を呼んで祖母は入院しました。

気を失ってしまったら、もう意識は戻らないだろうとお医者さんに言われていました。

それから昏睡状態が続き、祖母は、お医者さんが言ったように、1週間後に亡くなりました。

でも、亡くなる前の日に、祖母の死を目前にした私が隣で泣いていたら、急に目を覚まし、

「きりちゃん、何が悲しいの?どうしたの?」

と言うのです。

私は驚いて、「何かして欲しいことある?」と聞くと、「100%の林檎ジュースが飲みたいわ」と言いました。

私は「待っててね」と慌てて自動販売機のところに行きましたが、100%の林檎ジュースはありません。

夜中に病院前はいつもタクシーが並んでいるのを思い出し、そのまま1階に下りてタクシーに飛び乗り、いつも家に来てくれている酒屋さんに連れて行ってもらいました。

タクシーの中から酒屋さんに電話しました。夜中でしたので、電話でたたき起こすようになってしまいましたが、事情を話して、祖母お好みの青森の100%林檎ジュースを用意してもらいました。

病室に戻ってくるまで20分。祖母はもう昏睡状態に戻ってしまっていました。

私がいない間に病院に付き添いの交代のために来た母は、私がいないので、心配していました。

私は「ちょっと出てきます。30分以内に戻ってきます」とだけ、ナースステーションに言付けて出たのです。

祖母が目を覚ましたことを母に話しても信じてもらえませんでした。

でも、私が

「おばあちゃん、青森の林檎ジュースよ。芦屋酒店のご主人が用意してくれたのよ。おばあちゃん、もう1回目を覚ましてよ。ジュース美味しいよ」

と言うと、目を覚ましたのです。

「嬉しいわ。飲みたい」

と言うので、吸い飲みにジュースを入れて飲ませてあげました。

祖母は、2口3口飲んで、

「あー美味しいわ!きりちゃん、ありがとう。きりちゃん、きりちゃんは大丈夫よ。おばあちゃんが保証してあげるからね」

そう言ってまた眠ってしまいました。

それから目を覚ますことなく、翌日正午に祖母は息を引き取りました。

お医者さんに、祖母がジュースを飲んだ話をしましたが、「そんなことあり得ない」といった反応でした。

でも、私は、泣いている私の声に反応して、慰めるために起きてくれたと思っています。

おばあちゃんの遺言

赤い糸を持ちながら天を仰ぐ女性

祖母の初七日の法要の日、日舞のお師匠さんがお参りに来てくれました。

お師匠さんは、祖母から私宛の手紙を預かったというのです。

実は、初七日の前の日、日舞の名取の試験があり、私は合格していました。

祖母が昏睡状態になる前に、気合いを入れて私のお稽古をしてくれていたのですから、祖母の遺言のような気がして、初七日前でしたが、京都まで試験を受けに行きました。

後で知ったのですが、祖母は日舞のお師匠さんに、私が合格した手紙と不合格だったときの手紙の2通を預け、要らなくなった方はすぐに処分して欲しいと頼んでいたそうです。

祖母は、私の突然の変化を見て、

「みな何も言わないけれど、私はあまり先が長くないのかもしれないわ。わからないけどね。きりちゃんがあんまり嬉しいことばっかりしてくれるから気味が悪いのよ」と笑って言っていたそうです。

お師匠さんも、

「今思えば気付いていたのかもしれないわね」

と仰っていました。

だから、

「念のためよ。」

と言って、毎年お誕生日の日に日舞のお師匠さんにお手紙を託していたのだそうです。

生きて誕生日を迎えたらお手紙は祖母に返されていたのだとか。

************合格した方の手紙***************

「きりちゃん、合格おめでとう。おばあちゃんは、きりちゃんのお免状を持った姿を見たかったけど、合格することは想像できているから大丈夫。

たくさん付き合ってくれて本当にありがとう。

おばあちゃん、きりちゃんと一緒にやりたいことが全部できたよ。

この年で夢が叶うなんて幸せです。

きりちゃんには、私の全てを教えたし、もう思い残すことはありません。

あ、一つだけ思い残すことありました。

きりちゃんの素敵なお婿さんに会えなかったのが心残りです。

きりちゃんのことだから、きっと素敵なお婿さんを迎えてお家を守ってくれると思います。もう、『できそこないの跡取り』なんて誰にもこのおばあちゃんが言わせませんからね。

文句がある人には、このお手紙を見せなさい。

これが、おばあちゃんお墨付きの『跡取り合格』のお免状ですよ。

あと、きりちゃん、もしも、もしもの時だけだけど、もしも愛する人ができて、その人が婿養子に来ることができない人だったら、その時は、お嫁に行っておしまいなさい。

おばあちゃんが許します。家より、きりちゃんお幸せの方がおばあちゃんには大切です。

それに家を守る時代ではないですからね。

愛する人と結婚しなさい。これがおばあちゃんの最後のお願いです。

これを言っておかないときりちゃんは、絶対恋を諦めると思うから、おばあちゃんが今から許してあげます。

それまで生きていられたらおばあちゃんが全身全霊で、きりちゃんの味方になってあげるのだけど、無理みたいな気がするから、今から宣言しておきます。

でも、おばあちゃんのお墓参りには来てね。

きりちゃん、おばあちゃんの孫になってくれてありがとう。

あなたのすることは突拍子もなくていつも楽しかったわ。幸せな人生を送ってね。」

***********************************

これが祖母の遺言となりました。

祖母は、やっぱり自分の病気がわかっていたような気がします。

おばあちゃんは「死ぬのが怖い」と言う気持ちはなかったのだろうか、とふと私は思いました。この手紙を毎年どんな気持ちで書いていたのだろうと思います。

祖母のおかげで、私は従兄弟に跡継ぎを任せて、お嫁に行くことができました。

おばあちゃん、「死ぬのが怖くなかった?」

それでも、最後まで私のことばかり考えてくれてありがとう。

私もおばあちゃんの孫に産まれて幸せだったよ。

最後に

私は、このように祖母の死と向き合い、祖母と接しました。

今『おばあちゃんが死ぬのが怖い』と悩んでいる方にとって、おばあちゃんとの接し方、おばあちゃんの死の受け入れ方の参考に少しでもなれば幸いです。

限りある時間の中で、思い出を作るためにも、介護が必要なおばあちゃんへお勧めのプレゼント昔の遊びを知り高齢者と楽しもう!といった記事もご覧ください。

最後まで閲覧ありがとうございました。

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